スリービルボード

「ふざけんな!自分で買えよ!」

 

これは私が中学生の時ポテトを勝手に食べたNくんに言った言葉です。相当腹が減っていた私は急にアングリーメーターが振り切れたのです。自分で驚きました。MAXになった後は元の状態に戻るのは難しい。涙を流した後と同じで冷静とは程遠い。

 

ポテトを勝手に食べられただけで人間って怒ります。少なくともあの頃の私は。

 

では娘を失った怒りはどうでしょうか。同性愛者だと馬鹿にされた怒りはどうでしょうか。肌の色の違いで同じ人間と見られない怒りはどうでしょうか。とばっちりの復讐で大怪我を負った怒りは。

 

怒りが絶えないこの世の中で人を許すことってどういうことなんでしょうか。

 

劇場でスリービルボードを観ました。

フィクションです。圧倒的なフィクション。

どこらへんが圧倒的かというと人間の行動に必ず理由がさりげなく置いてある。説明一辺倒になるわけでもなく、アート映画のように説明されないわけでもなく。

 

何でその行動をとるのか。それがちゃんとわかる。わざとらしくなく。

 

行動に理由があってそれが説明できる。それならば先が見えそう。

 

しかし読めない。

 

自分が完璧に把握してきた道なのに、気がつくと思ったより奥にきている。

 

フィクションにはよく話を進めるために余計なことをするやつが出てくる。コイツに冷めてしまうことは少なくない。大抵の作品はコイツをその後ポイ捨てにするか、理由をつけて黙らせる。ストーリーを先に進めるためだけに出てくる。

 

人が作品の中で重層的に内面を見せる。まるで映画の中で人が生きているみたいに。極端なキャラクターを先に見せることによって、展開ごとに同じ人間の違う部分をあぶり出していく。

 

なんとも奇妙でそれでいて面白い。笑ってしまう。恐怖と笑い。その綱渡り。

 

 

人間のおかしみとか、どうしようもなさ。復讐の殴り合いの果てにもうダメかと考える。

 

でも人間捨てたもんじゃないよね。

 

最後はそう思わせてくれます。